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大学院進学ということ 服部哲弥


目次


私の研究室への大学院受験を考えて下さる方へ

服部研究室に興味を持って下さってどうもありがとうございます. まず,以下の文章の要約です.

  1. 現在(21世紀初頭10年前後)の数学の大学院は, 実社会では純化した形で経験する機会の少ない「数学的思考への集中」という ぜいたくな体験を2年ないし5年間経験する機会を提供することが 目的,と(概ね)考えられているようである. したがって,進学の主要な必要条件は,冒険に必要な準備と似ている. すなわち,自在に扱えるほどに十分身に付いた汎用性ある数学の力量を 身につけておくことが重要である. また,「経験」が主要な目的であることから, 課程修了後の進路は大学での研究に限らず,柔軟に考えることが前提になっている.
  2. 東北大学大学院理学研究科数学専攻の確率論研究室は, 現在竹田雅好先生と私が教授として責任を負っているが, その活動の高さはそこにいる若い諸君の勢いと実績で測るべきと考える. 若い諸君が,研究室の伝統を作っているのは自分たちだと自覚して, 後輩を引きつける伝統を作って下さることを期待する.


立教大学に採用していただいた頃に「私の研究室への大学院受験を考えて下さる方へ」 という文章をwebに上げました. 当時は, 国立大学(現在の独立大学院大学)の大学院重点化は始まったばかりで, それ以前は現在に比べて数学科の大学院生はきわめて少なく, 情報公開という概念も社会通念とは言えず, webも始まったばかりの頃で, 大学院で勉強するとは具体的にはどうすることか,について, 数学科の大学院受験生(学部4年生)の多くは限られた情報しか得られなかった ように見えます.そういう時代だったので, 私の研究室へ来るために必要な資質等についての文章をwebに上げておくことは 意味があったように思います.

その後国立大学に移り,その国立大学は時代の流れで国立大学法人に変わって, 結果として立教大学時代の「大学院生モデル」が一部全く現状を反映しなく なりました. 人によって具体的な見通しは違いますが, 10年のオーダー(概ね10年の0.5倍=5年から2倍=20年の予想の幅)では, 少なくとも旧国立大学数学教室の,少なくとも大学院修士課程は, 在籍する数学教室の教員数と同数程度の大学院生を毎年合格させて修了させる場 である,という認識は(数学教室の行く末を本気で心配する先生方の間では) 完全に定着しています. 以前のような, 「数学的研究への資質のある人が,覚悟(と,までは行かなくても少なくとも ある程度明確な人生設計)を決めて進学する場」ではなくなった,ということです. むしろ, 実社会では純化した形で経験する機会の少ない「数学的思考への集中」という ぜいたくな体験を,2年ないし5年間経験する機会を提供することが 目的,と概ね考えられているように見えます.

これを学生の側から見ると, 若いうちに秘境を貧乏旅行して 世の中の様々な側面を経験する人たちがいるように, 「理学(数学)という,社会な意味で少し『精神的辺境の地』に, 2年ないし5年住んでみて,論理と客観的事実が教える,人間と世界のある側面を 経験することで,その後の人生を豊かに生きるきっかけとなること」 が,21世紀初頭の数学科の大学院の目的と考えればよい,ということです. したがって, 大学院進学の主要な必要条件は, 以前のような,生涯に対する決心(人生観や人生設計)では必ずしもなく, 秘境への冒険において生命の危険を切り抜けるのに必要な準備のように, 研究の途上で出会う数学的困難において,面食らうことなく自在に応用できる ほどに十分身に付いた汎用性ある数学の力量を身に付けておくことです. また,「一定期間数学に没頭するという体験の機会を与える」という考え方で 進学を許されるのですから,課程修了後の進路は 大学での研究に限定せず,柔軟に考えることが前提になっています.

一方,情報公開という観点からも,この間に, 大学や学部(研究科)や専攻(教室)がパンフレットやwebによって (大学院受験生勧誘のために,というせっぱ詰まった事情があるから ですが)教室の活動やカリキュラムを公開するようになって, 以前ほど個人レベルで広報する必要もなくなり, また,下手に自分の意見を書いて組織の公式見解と食い違った場合に 問題が起きかねないというやや後ろ向きの理由からも, 立教大学時代に書いたような,大学院進学の心構えの文章は 意義が薄れてきました. 以上の両面(以前ほど数学科の大学院への進学が人生の重大決心で 無くなったことと,以前に比べて「公式」の情報公開が進んだこと)から, 私自身の立場と大学自体の社会的立場が激変したにもかかわらず, そして,一部実情に合わなくなっていたにもかかわらず, 文章の追記にとどめて全面更新は避けてきました. おそらく10年のオーダーでこの状況が続くと思いますが, 以前の文章のうち「研究の方法」に関する部分は ある程度普遍性があると考えて残していたところ, 実情に合わない部分がマイナスの印象を与えるかもしれない, と感じるようになったので,このページを加えることにしました.

現在,私は東北大学大学院理学研究科数学専攻では竹田雅好先生とともに 確率論グループとして確率論の進んだ勉強・研究を希望する院生諸君の指導を しています.上記のような一般的な状況の下で, 1年の間は,確率論の研究者や教科書が当然の前提にしている確率過程論の 基礎知識を,基礎的な教科書をゼミという形で読んで身につけてもらっています. その後,各自,自分のやってみたい分野・テーマを見つけてもらって, 基本的な論文を読みながらそこでやり残されたことの中から自分で 計算してみる,という順序になります.

ゼミは,聞き手がいるほうが勉強を継続するペースを作りやすい,というのが 主な意義です.たまには,分からないところを教えられる場合もありますが, 教授といえども分からないことは分かりません(基礎教科書の場合はだいたい 皆が使ってチェックが十分なされているので,大事なことに関しては 教科書の中に答えがある,と信じていいですが).高校時代までは先生や教科書 (または予備校や塾)が正解を持っていて,それを教わることが勉強だった, と思います.昔は,大学学部で, 「先生や教科書も間違いや分からないことがある.答えは自分で見つけないと いけない.」という姿勢を教わることになっていましたが,最近は 大学進学率の増加によって,少しその前提が崩れてきました. そこで,大学院で,「教科書に書いてあることが正解ではなく, 自分が納得したことだけが正解である.」という基本事実を納得する必要があります. これは意外に大きな発想の転換で,自分が正解を決めるとなると, 自分が勘違いしていないことをどうやって確認するか, 自分の計算力ではすぐ答えを見つけられないとき,どんな考え方(戦略)と手順 (戦術)で次の手を打つか,といった,問題解決のための知の技法を 編み出す必要が出てくるからです.

修士論文に向けてより絞ったテーマを探す段階での指導教員の役割は, 学生本人が示した興味のありように対して, とっかかりになる論文を例示したり, 可能なときは専門家を集中講義や研究ゼミに招いて講演してもらったり, それらの中でいくつか未解決問題が見つかったときは, とりあえずどれならできそうか,どれならおもしろそうか, などについて一つの考え方を示すことが主になります. あとは,書きつつある論文が分かりやすく穴がないことを確認する 手助けの役割もありますが,教授といえども わかりにくい文章を分かりやすくする 魔法の杖を持っているわけではないので, 具体的な手助けを期待しないほうがいいと思います. 学生の面倒見が良い先生の教える院生でもその修論の「でき」は 院生によって大きな差がありますから, 誰も魔法の杖は持っていないことは明らかです.

もちろん,私の研究テーマを共同研究してみたいという場合は喜んで対応します. ただ,私のテーマは私の特異な背景に由来するもので, 多くの人が興味を持っているテーマでもなく, 必要な数学的力量が汎用性のあるものとは言えないところが悩ましいところで, 現時点ではこちらからお勧めすることはしていません. どうしてもやりたい場合は申し出てください. 内容は私のwebの論文や雑記帳に書いた問題提起の説明をご覧下さい.

修士での研究の実際の概観説明が先になりましたが, 最後に一点,東北大学大学院理学研究科数学専攻の確率論研究室の看板は 教授である竹田先生と私が責任を持っていますが, その活動の高さはそこにいる若い諸君の勢いと実績で測るべきと考えています. 若い諸君が,研究室の伝統を作っているのは自分たちだと自覚して, 後輩を引きつける伝統を作って下さることを期待しています.

旧版の私の研究室への大学院受験を考えて下さる方へ(立教大時代版)は こちらです.上にも書いたように,研究の方法についての断片は ある程度普遍性があって, 特に研究を続けていく人には現実にも意味がある可能性があるので, 現状に合わない部分も含めて当時のままとしてあります.

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学会講演してください

大学教員としての研究という人生設計を目指す院生諸君および 任期無し(tenured)ポジションをまだられていない研究者諸君に とっては,どうやったら雇ってもらえるかというのはたいへん重大な 関心事と思います.

そのための戦術は山のようにあると思いますが, もちろん,その第一は何にもまして良い研究をすること, そして第二はそれを発表することです. 発表とは,第一にはレフェリーの付いた学術雑誌からの掲載決定を 得ることで,第二には研究会や学会での講演でしょう.

こうやって順序を付けると順位の後のほうの問題ではありますが, 職を求める立場の諸君にはぜひ学会講演をお願いします. 確率論の場合は,日本数学会の他に昔から「大シンポ」と呼び習わされて きた,12月の大きな研究会も含まれます.(ちなみに, この研究会は,私が出入りするようになってから時代が大きく動いて, 名称が「マルコフ過程とその周辺」から「確率過程とその周辺」に, そして現在は「確率論シンポジウム」となったようですが, いずれにせよ,かつてある先生が「良い意味でも悪い意味でも学会である」と, 明確な特徴付けを 教えてくださったように,確率論にとっては学会に準じる意味合いがあります.) つまり,専門家だけの研究会だけではなく,一般的な確率論研究者の集まる場で 「素人向け」にも講演してほしいということです.

その理由は単純に言えば,人事を考えるときにご本人とその研究を見たこともない ようでは推薦しにくいということです.今日のようにポストが減りつつある 状況では,(守備範囲を狭くする方向に走る教室も一部あるようですが,) 少ないポストでできるだけ広い分野をカバーすることを考える必要があります. 外から見れば確率論というのは十分小さな専門分野でしょうが, 中は多くの専門的研究会を持つ広い領域です. 教授になると講義以外にも雑用で責任ある立場になり, 確率論の中でも少し専門外の研究会になると 出席する時間的・精神的余裕はありません. 「素人」向け(のはずの)講演がたくさんある学会や大シンポが 人的情報収集の数少ない機会です.

確率論分科会は学会講演が恒常的に少なく前世紀から問題になっていました. (すみません_o_ とはいえ,私を「よそ者」として数に入れていなかったと覚しき お偉い先生もおいででしたので,私が講演しても,そういう先生にとっては 喜びも中くらいだっただろうとは思いますが,これは特殊事情です.) 若い諸君が積極的に学会講演することは,喜ばれこそすれ, じゃま扱いされることはありえません.

私が主要な役割を果たす人事は多くないと思います. かつての小講座のように,教授が自分の研究室の若い人を決める と考えるほうが計算が簡単だったと思いますが,単純に考えると, 5年から10年に一人くらい関わる機会があるか,というところでしょう. 最近は教室全体で人事に責任を負う大講座制なのでわかりにくいですが, 全員で責任を負えば一人当たり影響力は人数分の一と考えると, やはり10年に一人分くらいの影響力でしょう. むしろ,そのような直接の機会の直前に発表を聞いても, それを咀嚼したり,周辺情報を収集するには間に合わないので, ポストが空きそうだからそこの大学の教授にアピールする,という 発想は必ずしも有効ではありません.(知らないよりは知ってもらった方が いいとは思いますが,直前面接では研究内容よりも人間性が重視される かもしれません.) 採用側から見れば, 直接役立つあてはないが,どんな人がいるか普段から聞き耳を立てている (そうでないといざというとき間に合わない),というのがより 多くありそうに思います. 裏返せば,講演は誰が聞いているか分からないしいつそれが役立つか分からない という前提で,一つ一つを大事に,専門家でなくてもアピールするように, 大事に考えることを提案します.

「分からないのは聞いているほうが悪い」と言わんばかりの「お」偉い先生の 講演スタイル(というものが,もしあれば)を踏襲することは私はお勧めしません. 最近の若い方々は昔の先輩方に比べて格段に講演がうまくなっていると思います. ということは,その中で内容が伝わらない講演をすればますます不利になる, ということです. 10分講演なら,結果のうち主要なものだけと,なぜそのような問題を考えるかという 背景の一言での説明,くらいでしょう. それでも,そのようにまとめられる,という能力は,たとえば講義担当能力や 共同研究などでの意思伝達能力を推測させる手がかりになります. 大学教員は給料表では教育職となっていて,講義の見返りに給料をもらっている 建前になっています(実際は雑用と講義の見返りに給料をもらっている気分ですが). グローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードの時代になって, こういった建前が重視される社会になってきました. 学生が満足するような講義ができる能力は人事においても(どれくらい重視するかは 別にして)たしかに「見られて」います.

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ウェブの活用

以下は,幸運にも大学の安定したポジションに無事就けたら,の話です. 若いうちは宣伝する機会が多くはないけれども, その一方で次のポジションを目指して宣伝したい,ということがあると思います.

いっぽう大学も税金の投入がありますから,現代では宣伝と社会還元の一環として, 大学ウェブに各教員の研究テーマや主要論文を載せるようになっているところは多い と思います.また,代表的な競争的資金である 科研費を扱う 日本学術振興会researchmapという, 研究成果の宣伝に向いたブログ集合体を用意しています.

これらの研究宣伝用に用意されたスペースに研究者が自分の研究成果や研究課題を 載せることは,両者の利害が一致しますから,おそらく多くの若い研究者が 積極的に書くと思いますし,そうすることをお勧めします. むしろ,嫌々リストを載せておざなりの短いテーマ表題を載せるよりも, 積極的にご自分の研究のわかりやすい解説を載せることをお勧めします.

若いうちは次のポジションということもあるので, (昇進転出する他大学でポジションの決定権を持っている)専門外の人にも わかるように,自分の研究テーマの背景と自分の成果の平易な解説を書くことは 専門内部だけでなく少し広い研究者に宣伝する数少ない貴重な機会です. また,そのような文章を(たとえば論文が増えるたびにリストともに 解説も増やして)ためておけば,公募への応募書類を書く際に容易になります.

それだけではなく,競争的研究資金への応募の際もこれらの文章は応募書類の ひな形になる上に,ウェブで専門分野の外に向かっても発信している,という そのこと自体がポイントになります. 実際,科研費の応募書類には「研究成果を社会・国民に発信する方法」を書く 欄があります.

業績一覧や論文の表題やアブストラクトを抜き出しただけのページを多数用意して, 「多くのウェブページを用意して発信している」と応募書類に書く人もいるようです が,専門家にしかわからない学術論文の表題やアブストラクトだけでは, 国民や社会どころか,隣接分野への発信にすらなっていません. たとえば科研費は,分野によってはかなり広い分野をまとめて一つの細目として いるので,隣接分野の専門家が審査員になって応募書類を読みます.そのとき, 上記のようなページについて「多くのウェブページを用意して」と書かれた 応募書類を読んだ審査員がどのように感じるか考えてみて下さい.

若いうちに金額の少ない応募をしている間は,国民への発信よりも業績の量が 採否に重要だと思います.しかし, 若いうちに平易な内容解説を用意しておけば,そしてそれを少しずつためていけば, 国民への発信も重要になる多額の資金に応募する年齢になったときに, 忙しい思いをせずに,「詳しくはウェブを参照」と書くことができます. 若いうちに,平易な文章で自分の研究を宣伝することに利害が一致するうちに それをしておくことで,年齢を重ねた後も有利になる資源を増やすという 考え方をご一考下さい.

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